北海道命名之地にて ~音威子府(おといねっぷ)村で生まれた「北海道」という名の秘密に迫る~
北海道。
日本人ならその名を知らない人はおろか、どこにあるのか分からないという人は、まずいないでしょう。
食文化や大自然など、様々な点から人々を魅了し、観光したい都道府県のトップ3常時ランクインは揺ぎ無いもの。
2018年(平成30年)は、そんな北海道が「北海道」と命名されて150年目という節目の年。
今回は、北海道という名称が生まれた場所についてまとめてみます。
音威子府村 ~北海道命名の経緯を探る~
北海道音威子府村(おといねっぷむら)。
47都道府県最大の面積を誇る北海道。音威子府村は、その北海道の中で最も人口の少ない村となっています。
この地にこそ、北海道という名が誕生した場所があります。
まだ「国境」というものが曖昧であった幕末。ロシアの日本進出が進み、国境に対する危機感が高まりました。
当時、江戸幕府や明治政府は、北海道の事を“蝦夷(えぞ)地”と呼んでいましたが(蝦夷とは「異民族」という意味があると言う)、日本の領土である事を明確にする為、名称を改める事となったのです。
ここで重要となる人物が、松浦式四郎。
探検家であり、そしてこの人物こそが北海道の名付け親であるのです。
1857年(安政4年)、式四郎はアイヌの人たちと共に往復24日間に渡る天塩川の探査を行い、『手塩日誌』として記録しました。
その探査の帰途中、故事に詳しいアイヌのアエトモ長老から、
「アイヌの通称である『カイナ』の“カイ”とは、この国に生まれた者ということで、“ナ”とは、貴人をさす尊敬の言葉である」
という話を聞き、
「アイヌの人々は、自らその国を呼ぶとき加伊(かい)と言い、アイヌはひげが長いところから蝦夷(かい)の字を用いたが、もともと蝦夷地の蝦夷(えぞ=かい)とは加伊のことである」
と考えます。
そして1869年(明治2年)7月17日、式四郎は道名の候補に関する意見書を明治政府に提出し、8月15日、太政官布告によって「北海道」と命名されたのです。
ちなみに、式四郎が提出した道名の候補は全部で6つありました。
「日高見道(ひたかみどう)」
「北加伊道(ほくかいどう)」
「海北道」
「海島道」
「東北道」
「千島道」
この中から採用されたのが「北加伊道」であり、「加伊」の字に北方の海に通じる「海」をあて、「北海道」という名が誕生しました。
では、なぜ音威子府のこの地が「北海道命名の地」とされているのか?
それは天塩川探査の5日目、式四郎が宿泊したと推定されているのが「トンベッホ(音威子府頓別坊)」であり、この地でアエトモ長老と出会った事から生まれたと言われているのです。
北海道命名之地へのアクセス
音威子府村の中心部からだいぶ外れた天塩川沿いに位置しており、バスも付近を走っていない為、公共交通機関でのアクセスはなかなか困難となります。
敢えて列車で行くとすれば、最寄り駅は筬島(おさしま)駅となりますが、列車の本数が少なめであり、周辺はほとんど何もない場所となっていますので、注意が必要です。
筬島駅から徒歩1.8kmほど。散歩に適した距離ではあるかもしれませんが。
ただし、ヒグマを始めとした、動物に出くわす可能性もあります。
道路には歩道もありませんので、十分に注意をしましょう。
熊よけの鈴は最低限用意しておいた方が無難です。
車でアクセスする場合も、カーブの途中の整備されていない分岐路を進んでいく事になりますので、非常に分かり難いです。
案内板もそんなに目立たない位置にしか立てられていませんので、簡単に見逃してしまいます。
注意しましょう。
砂利道をしばらく進んでいくと、開けた場所に出てきますが、ここが駐車場となります。
ここから先は「車両進入禁止」の看板が立てられていますので、注意。(轍がありますが、この看板はけっこう見落としやすい位置にあります)
ただ、辺りは碑と案内板が建てられているのみ。
あとは天塩川と山々が広がるのみという、自然の中にいきなりポツンとあるだけという、あまりに質素な場所となっています。
せっかく天塩川沿いにあるので、川と山の景色でも楽しもうかと思いましたが、私が訪れる直前に、まるでスコールのような非常に強い通り雨が降ったので、大きな水溜りができた状態となっていました。
しかし、日本人なら名前も場所も知らない人はまず存在しないであろう北海道。
その名が誕生するきっかけとなったこの場所で、北海道の歴史と大自然にしばらく思いを巡らせてみるのもよいでしょう。
ここからけっこう離れてはいますが、音威子府駅とそこで営業している駅そばもまた、この地ならではの名物となっています。
次回はその音威子府駅について少しだけまとめてみようと思います。
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